羊と鋼の森〜読書感想文〜
宮下奈都さんの羊と鋼の森を読みました。
恩田陸さんの蜂蜜と雷鋒もピアノを扱った小説でしたがあの本が天才と情熱のピアノとするならば、この本は技術者と穏やかなピアノのイメージ。
私も技術職なので、心にくる描写が多かったです。
技術ってほんとうにひとっとびに上手くなるものじゃないんですよね。
コツコツコツコツひとつひとつの段階をクリアしていくしかない。
でもそれよりも大事なというか、それを支えるのが考え方の部分なんです。
主人公の周りにはその考え方の部分で成長させてくれる人がたくさんいて、もちろん主人公の感受性が豊かだからヒントをすくい上げることができるっていうのもあるんですが、読んでいてとても勉強になりました。
小説としては場面の切り替わりが急すぎるのとラストがちょっとなあ、もうちょっと長くてもよかったんじゃないかなあってかんじです。(誰目線だよww)
私が本を読むのが好きな理由の1つとして、実世界では絶対に知り得なかっただろう情報を得られるというのがあります。
もしこの本を読んでいなかったら、ピアノの調律師という仕事の重要さを知らなかっただろうし、ピアノの中の構造や音の微妙な変化の具合も知らないんですよね。
それが見てはないのに知っている。
ウィキペディアのようにピアノの説明が記号的に並んでいるのではなく、物語として、その仕事に携わる人の感情まで知っている。
実際に体験したわけではないのに、実体験として頭に残っているのは、すごい小説のなせる技ですよね。
中には知らない方が幸せに生きれただろうと思うようなこともあるんですけど、事実を知らないまま幸せと思い込んで生きるよりはいいと思っています。はい。
他にも面白い本がありましたら紹介してくれると嬉しいです〜!
おしまいまいかぶり
最低限の努力で最大限の結果を
タイトルにあるのは私の好きな言葉です。
最低限の努力をして、最大限の結果を出す。
こんな小狡いこと嫌ですか?
(最小限のほうが適している表現だと思いますが、最低限のほうがしっくりくるのでそれでいきます)
もちろん最低限の努力で出せる結果は限られています。
でも例えば、100点を求められていない時、80点を量産することを求められているときにはとても効果的だと思うんです。
100点を目指す場合大抵は120%の努力が必要です。これでもかとやっても99点の時もある。
でも80点なら80%の努力、最低限にすれば50%の努力でも達成できます。
さらに平均点くらいなら20〜30%の努力、もしくはほとんどしなくても達成できるかもしれません。
最低限の努力というのは80点をとるために80点分の勉強をするのではなく、要点と流れを押さえて50点分の勉強時間で80点を取ろうということです。
というか、そもそも楽しんで取り組んでることって努力って思わないじゃないですか。
それで知らず知らずのうちに100点をとっている。
だから、努力しなきゃって思っている時点で100点はとれないと諦めて、80点を量産するほうにシフトした方がいいと思うんですよね。
んで、余った時間で楽しいと思えることをして100点をとりたい。
自分が楽しいと思えないことに労力を割かないためにも、高い点数をとることよりどこを努力すれば最も簡単に点数がとれるのか常に考えて行動するべきなんじゃないかと。
最初のうちは頭をフル回転させてないといけないので疲れますが段々と慣れてきて時間に余裕が出てくるかんじが私は好きです。
好きなことだけできる仕事だったらこんなことしなくてもいいんですけどね〜
そうもいってられないんで私は今日も最低限の努力で最大限の結果を出すことを目指します、、、
今日もいっしょにがんばりまっしょい
おしまいまいかぶり
国立西洋美術館
わたしのもう一度行きたい場所は上野の国立西洋美術館です。
今は仕事の関係で気軽に行ける距離ではありませんが、学生の時はよく行っていました。おさぼりに…ww
満員電車って小さい駅じゃなかなか降りられなくて、そういう時は諦めて上野まで行って美術館に寄ってから学校に行ってました。
その静かな時間があるおかげで、とりあえず電車には乗れたんですよね。
満員電車は私にとっては心理的負担が大きくて、降りますって言ってるのに道を開けてくれなかったり、舌打ちをしながら我が道をとおるサラリーマンとか見てると、「世の中にはこんな心が冷たい人がたくさんいるんだ」って落ち込んでしまうんですよ。ナイーブですねww
そんな時心の支えになるのが「ダメだったら上野で降りて美術館に行こう」という、ダメだった時のためのルートです。
このもう1つのルートがあるおかげで、ダメだった時の焦りや落ち込みをセーブできます。
どんな選択をする上でもダメだった時のルートは確保してるんですが、この話はまた別の機会に(^^
特に私はクロード・モネが好きなのでモネの絵の前でボッーとするのが最高に良いです。
平日の昼間は特に人がいないので美術館独特の匂いと静けさを味わえて更によし。
モネを好きになったのは、原田マハさんの小説がきっかけなのですが、それもまた機会があれば(^^)
美術館に行く時はぼっちが常なので、たまには詳しい人とも行ってみたいですね、、。
おしまいまいかぶり。
TVは楽しさの疑似体験?
どうも。ぜんまいざむらいです。
私は1人の時にテレビを見ないように気をつけています。
というか、働き始める前はテレビを全然見なかったんです。
でも今は部屋についたらとりあえずテレビをぽちっと、、、なんかテレビ付けないと寂しいなーと思うようになってしまった。
学校行ってバイトして遊んでいる時はテレビなんて見なかったのに、なんで今はこんなにもテレビをつけたくなってしまうんだろう。
それは「テレビは楽しさの疑似体験である」からではないかと。
(もしかしたらどっかのだれかがすでに言っているかも知れないのですが、私は勉強不足なのでそこはご勘弁を(^^;)
つまり日常に楽しさがたりないのです。
だからテレビの中の楽しさにすがる。
楽しい出来事に笑って、楽しくなったつもりでいる。激しい意見に共感して自分も激しいことを言った気分になっている。
実際の自分はテレビの前に座っているだけです。なにも生み出してないし、行動すらしていない。生産性はゼロです。
それなのに、何かをした気になっているのが恐ろしい。
テレビで楽しさを得るのは簡単です。
だけどその楽しさは、何かを深く考える時間や小説を読んだり文字を書いたりする時間を奪っています。
気づかないうちに、普遍的な価値観を植えつけられているかもしれない。
もしかしたら、深く考えたらとても耐えられないような毎日をやり過ごすためにテレビを見るのかもしれませんね。
テレビを見ないで済む人は、現実に楽しいことが溢れているか(リア充タイプ)、深く考えたら耐えられないような現実に向きあう狂人か(小説家タイプ)、自分の現実が耐えられないようなものだと気がつかないおばかさんか。(1番幸せに生きれるタイプ)
テレビはある意味逃げ道だ。
その逃げ道に走ったところで、深く考えたら耐えられない現実を生きていることには変わりない。
変わりないなら、それは考えて、考えて、改善策・打開策を出した方がいいんじゃないのか。
テレビという安易な楽しさに逃げてないで。
って考えながら帰ったらテレビつけるんでしょうね。現実を見つめる勇気なんてないもの。今日も今日とて。(^^)/~~~
デートあるあるいいたい〜
みなさんはデートで動物園や水族館に行ったことがありますか?
私はその2つとも苦手です。
檻の中にいる生き物を見ていると私が檻の中に入れられて色々な人に見せ物にされたらどんな気分になるだろう。ってどうしても想像してしまう。
もちろん子供に様々な生物の実態を見せられるという教育的観点もあるので、難しいところではあるんですが、、。
でも考えてみてほしい。
自分の家が全部ガラス張りにされて、いろんな人が見に来て、食べてる姿すら観察されてしまう状況を。
なんて恐ろしいんだろう。
自然界より危険が少ないから生き物にとっても幸せなはずだって言うひともいる。
じゃあ、生まれた時から檻の中にいる動物は?
自然界を知らずに死んでいく動物が本当に幸せといえるのだろうか。
同じ理由でペットショップも嫌いです。
ショッピングモールにデートに行った時これを言うと冷たいって思われがちだけど、生き物に値段をつけて見せ物にして、飼いもしないのに可愛い可愛いと撫で回す方がよっぽど残酷だと思う。
ひねくれてるのかな。
この性格じゃデートすら難しい、、。
ルフィとヘーゲルに学ぶ本当の自由
自由になりたくてなりたくてしょうがない私は、考えすぎた結果どんな状態が自由なのか分からなくなってしまった。
そこで私の思う自由を実現している漫画ONE PIECEのルフィパイセンについての分析を始めた。
「支配なんかしねぇよ この海で1番自由な奴が海賊王だ」
ルフィの有名な言葉だ。
貴族や世界政府など巨大権力だとしても関係なく、理不尽には怒ることができる。
仲間を守りたいという自分の欲求を突き通すことができる。
自分の欲求に従っているのに皆に好かれている。
それはなぜか。
それはルフィの欲求がいい欲求だからだ。
皆を助けたい、仲間を守りたい。理不尽は許さない。
すべて人のための行動を自分の欲求として行動している。
自分の欲求に従った結果、誰かを助けている。
だから感謝は求めないし人から感謝される。
逆に自由にふるまって嫌われる奴もいる。
ドフラミンゴだ。
ドフラミンゴは金儲けや武器の密輸、戦争の斡旋など自分のためだけの悪い欲求に従っている。
欲求が悪いから、その欲求に従って自由に行動していると嫌われ、憎まれ、やがて淘汰される。
ルフィもドフラミンゴも自分の欲求に従っていることに変わりないが、欲求の質が違うため、周りのリアクションが違う。未来も違う。
つまり欲求の質が大切ってことだ。
ここでヘーゲルがでてくる。
ヘーゲルの「法の哲学」では自由についてこのように書かれている。
「さまざまにわきあがる欲求のうちで最もよい欲求を選び取り、それを実現して、他者からの承認を得られるときに感じられるもの」
もちろんルフィみたいに自分の欲求がすべて「よい」ものだったら問題はない。
だけど人は心にルフィもドフラミンゴも飼っている。善も悪もある。
だからこそ悪は理性で抑えて善の欲求をきちんと選ぶ必要があると思う。
それができて他者から認められたとき、始めて自由になれるのではないか、、というのが今のところの結論だ。
これは私の頭の中だけでの結論なので、反論や賛成意見ありましたらコメントしてくれると嬉しいです(ノД`)
自由になれる日はくるのだろうか、、笑
ぜんまいざむらい(´-`).。oO
苦手なことで勝負できるほど甘くない
わたしの転機は高校時代3年間担任だった先生のこの言葉。
「苦手なことで勝負できるほど社会は甘くない。好きなこと、得意なことを仕事にしなさい」
進路に迷っていた私にこの言葉はどしんと衝撃を与えた。
なるほど。たしかにそのとおり。
好きなことといえば、本を読んだり、美術館にいったり、旅行をしたり、、お金になりそうもないことばかり。
ならば得意なことではどうだ、と、
コミュニケーションをとることや運動が得意。手先も人より器用なはずだ。
さらに私は苦手なこと、できないことをなるべく避けるべくピックアップしていった。
急ぐことや集団行動が苦手で満員電車も乗りたくない。単純作業の繰り返しができない。
この条件を全て満たせるのは、、と考えて、今の会社に就職した。
できないことがいっぱいある私だか、人にはできないことができる。
この能力はこの仕事だからこそ武器になる。
もしあの先生の言葉がなくて、なんとなく進路を決めていたら、とんでもない未来が待っていたかも知れない。
ちなみに、弟はゲーム好きを極めてプロのゲーマーになった。とっても楽しそうで好きを仕事にできない私はちょっと羨ましい。
みんなの好きや得意が仕事になれば月曜日が待ち遠しくなる日がくるのかもしれない。