海辺のカフカ〜読書感想文〜
ノルウェイの森ですっかり村上春樹に魅せられて、海辺のカフカも読みました。
いやぁ〜すごい。
こんなに後先考えずに行動できちゃう人いるんだって。それほど大きな衝動があることに羨ましさと驚きを感じました。はい。
小説のよさってやっぱり自分になかった感情を知れることだとおもう。
私だって家出したいと思ったことは何度かあるけど、中学生が1人で生活していけるわけでもないことくらい想像できて諦めてた。
それを知らない人の家に泊まったり(きちんと強くなる準備をしていたとしても)、ナカタさんだって知らない人の運転で連れてってもらったりして、私だったら絶対に怖くてできないしそんな発想もないって思ってしまった。
設定はファンタジーっぽいとこもあるけど、すごく身近で切実な問題があって読んでて苦しかったなぁ。
アロハのやつも一人称「俺っち」から「俺」になってたし。わざとかなぁ。わざとだよなぁ、あれは。最後にちゃんとジョニーウォーカー殺すし、ホシノくんが1番のヒーローだと思う。
登場人物もキャラ濃くて覚えやすいてか顔がイメージできるからいいよね。
面白い本読んでると頭の中に動画がながれるかんじがして、すごく好き。
要するに面白かったです。
村上作品他にも読んでいきたいと思います〜♪( ´θ`)
おしまい
意地悪される方が悪いんだ
意地悪される方が悪いんだ。
今日出会ったのはそんな方だった。
いじめもパワハラも受ける方が悪いんだ。される方にも原因はある。
そんな風に考えている人はどこの場面にもいる。
でも、誰がそんな世界で生きたいんだろうか。
そんな人に出会うと私はいつも聞きたくなる。
「じゃああなたは人から冷たくされたことや意地悪されたことはないんですか?それを嫌だとは思わなかったんですか?」と。
生きてればどこかで意地悪されたり、理不尽な扱いをうけることは必ずあるだろう。
100%ないと言える人はほとんどいない。
そんな稀な人は意地悪に気づかない鈍感でパッパラパーな幸せ人間だ。
意地悪されたから意地悪を仕返すのでは、自分で嫌な世界を立証したことになる。
「ほらな、世の中こんなもんだ」
所詮弱肉強食。される方にも問題がある。
そうやって過去の自分を追い詰める。意地悪をした方が悪いんではなくて、意地悪をされた自分が悪いんだ、と。
人に意地悪をした自分を肯定することで、過去に意地悪された自分を否定している。
この負のスパイラルにはまるとやっかいだ。
だって意地悪を受けたことがない人なんていないから。
今あなたが意地悪をしているのは過去のあなただということを忘れないでほしい。
される方が悪いんだ。弱いからいけないんだ。
そうやって自分の首を締めて生き辛くなる前に、今すぐ考えを改めてほしい。
過去の自分に、意地悪される方が悪いんじゃない。してくる方が悪いんだよ。と胸を張って言えるように。
あなたのその意地悪をされたモヤモヤは人にぶつけることでは解消されない。その空虚は大きくなるばかり。
人に優しく。許しあうこと。意地悪している人をきちんと見下すこと。
そうすることで過去の自分を救うことができるよ。
今日出会った方にこの考えが伝わることはないだろうけど、見てくれた人の周りの世界が少しでも平和になりますように。自戒もこめて。
おしまい
ノルウェイの森〜読書感想文〜
村上春樹作品は回りくどくてめんどくさいイメージがあったので食わず嫌いをしてしまっていた。
第1印象は、、エッロ!え!村上春樹ってもっと固いセンチメンタルなイメージだったよ!
ピースの又吉のもっと複雑なのだと思ってたよ!
てか村上春樹好きって堂々と言える人すごくない?こんなにエロいのに?そっと心にしまっておきたい好きさじゃない?
あれかな、村上春樹のエロさは文学として成り立ってるから恥ずかしいものなんかじゃない!(そういったものを好きと言える自分かっこいい)みたいなもんなのかな?
とかちょっときもいテンションの上がり方をしてしまったんですが、、
でも、確かにすごい。
表現は複雑だか、それがめんどくさくなく、情景のイメージをより鮮明にしてくれる。
そもそも人間は白黒はっきりしてるようなものではないので、きちんと描こうとしたら複雑になってしまうものなんだと思う。
ピースの又吉さんの火花は情景をいろんなものに例えて細かく書いているが、それに回りくどさを感じてしまうというか、あえて回りくどくしてると感じてしまう。(それでもとてもおもしろかったけど)
村上春樹さんのはすっと入ってくるし、不自然さを感じない。森の木が全部バターになって溶けてしまうくらい好き。というフレーズには感動した。
そう、私は感動したのだ。
この本を村上春樹を好きになってしまったしこれからどんどん制覇していこうと思う。
おしまいまいかぶり
羊と鋼の森〜読書感想文〜
宮下奈都さんの羊と鋼の森を読みました。
恩田陸さんの蜂蜜と雷鋒もピアノを扱った小説でしたがあの本が天才と情熱のピアノとするならば、この本は技術者と穏やかなピアノのイメージ。
私も技術職なので、心にくる描写が多かったです。
技術ってほんとうにひとっとびに上手くなるものじゃないんですよね。
コツコツコツコツひとつひとつの段階をクリアしていくしかない。
でもそれよりも大事なというか、それを支えるのが考え方の部分なんです。
主人公の周りにはその考え方の部分で成長させてくれる人がたくさんいて、もちろん主人公の感受性が豊かだからヒントをすくい上げることができるっていうのもあるんですが、読んでいてとても勉強になりました。
小説としては場面の切り替わりが急すぎるのとラストがちょっとなあ、もうちょっと長くてもよかったんじゃないかなあってかんじです。(誰目線だよww)
私が本を読むのが好きな理由の1つとして、実世界では絶対に知り得なかっただろう情報を得られるというのがあります。
もしこの本を読んでいなかったら、ピアノの調律師という仕事の重要さを知らなかっただろうし、ピアノの中の構造や音の微妙な変化の具合も知らないんですよね。
それが見てはないのに知っている。
ウィキペディアのようにピアノの説明が記号的に並んでいるのではなく、物語として、その仕事に携わる人の感情まで知っている。
実際に体験したわけではないのに、実体験として頭に残っているのは、すごい小説のなせる技ですよね。
中には知らない方が幸せに生きれただろうと思うようなこともあるんですけど、事実を知らないまま幸せと思い込んで生きるよりはいいと思っています。はい。
他にも面白い本がありましたら紹介してくれると嬉しいです〜!
おしまいまいかぶり
最低限の努力で最大限の結果を
タイトルにあるのは私の好きな言葉です。
最低限の努力をして、最大限の結果を出す。
こんな小狡いこと嫌ですか?
(最小限のほうが適している表現だと思いますが、最低限のほうがしっくりくるのでそれでいきます)
もちろん最低限の努力で出せる結果は限られています。
でも例えば、100点を求められていない時、80点を量産することを求められているときにはとても効果的だと思うんです。
100点を目指す場合大抵は120%の努力が必要です。これでもかとやっても99点の時もある。
でも80点なら80%の努力、最低限にすれば50%の努力でも達成できます。
さらに平均点くらいなら20〜30%の努力、もしくはほとんどしなくても達成できるかもしれません。
最低限の努力というのは80点をとるために80点分の勉強をするのではなく、要点と流れを押さえて50点分の勉強時間で80点を取ろうということです。
というか、そもそも楽しんで取り組んでることって努力って思わないじゃないですか。
それで知らず知らずのうちに100点をとっている。
だから、努力しなきゃって思っている時点で100点はとれないと諦めて、80点を量産するほうにシフトした方がいいと思うんですよね。
んで、余った時間で楽しいと思えることをして100点をとりたい。
自分が楽しいと思えないことに労力を割かないためにも、高い点数をとることよりどこを努力すれば最も簡単に点数がとれるのか常に考えて行動するべきなんじゃないかと。
最初のうちは頭をフル回転させてないといけないので疲れますが段々と慣れてきて時間に余裕が出てくるかんじが私は好きです。
好きなことだけできる仕事だったらこんなことしなくてもいいんですけどね〜
そうもいってられないんで私は今日も最低限の努力で最大限の結果を出すことを目指します、、、
今日もいっしょにがんばりまっしょい
おしまいまいかぶり
国立西洋美術館
わたしのもう一度行きたい場所は上野の国立西洋美術館です。
今は仕事の関係で気軽に行ける距離ではありませんが、学生の時はよく行っていました。おさぼりに…ww
満員電車って小さい駅じゃなかなか降りられなくて、そういう時は諦めて上野まで行って美術館に寄ってから学校に行ってました。
その静かな時間があるおかげで、とりあえず電車には乗れたんですよね。
満員電車は私にとっては心理的負担が大きくて、降りますって言ってるのに道を開けてくれなかったり、舌打ちをしながら我が道をとおるサラリーマンとか見てると、「世の中にはこんな心が冷たい人がたくさんいるんだ」って落ち込んでしまうんですよ。ナイーブですねww
そんな時心の支えになるのが「ダメだったら上野で降りて美術館に行こう」という、ダメだった時のためのルートです。
このもう1つのルートがあるおかげで、ダメだった時の焦りや落ち込みをセーブできます。
どんな選択をする上でもダメだった時のルートは確保してるんですが、この話はまた別の機会に(^^
特に私はクロード・モネが好きなのでモネの絵の前でボッーとするのが最高に良いです。
平日の昼間は特に人がいないので美術館独特の匂いと静けさを味わえて更によし。
モネを好きになったのは、原田マハさんの小説がきっかけなのですが、それもまた機会があれば(^^)
美術館に行く時はぼっちが常なので、たまには詳しい人とも行ってみたいですね、、。
おしまいまいかぶり。
TVは楽しさの疑似体験?
どうも。ぜんまいざむらいです。
私は1人の時にテレビを見ないように気をつけています。
というか、働き始める前はテレビを全然見なかったんです。
でも今は部屋についたらとりあえずテレビをぽちっと、、、なんかテレビ付けないと寂しいなーと思うようになってしまった。
学校行ってバイトして遊んでいる時はテレビなんて見なかったのに、なんで今はこんなにもテレビをつけたくなってしまうんだろう。
それは「テレビは楽しさの疑似体験である」からではないかと。
(もしかしたらどっかのだれかがすでに言っているかも知れないのですが、私は勉強不足なのでそこはご勘弁を(^^;)
つまり日常に楽しさがたりないのです。
だからテレビの中の楽しさにすがる。
楽しい出来事に笑って、楽しくなったつもりでいる。激しい意見に共感して自分も激しいことを言った気分になっている。
実際の自分はテレビの前に座っているだけです。なにも生み出してないし、行動すらしていない。生産性はゼロです。
それなのに、何かをした気になっているのが恐ろしい。
テレビで楽しさを得るのは簡単です。
だけどその楽しさは、何かを深く考える時間や小説を読んだり文字を書いたりする時間を奪っています。
気づかないうちに、普遍的な価値観を植えつけられているかもしれない。
もしかしたら、深く考えたらとても耐えられないような毎日をやり過ごすためにテレビを見るのかもしれませんね。
テレビを見ないで済む人は、現実に楽しいことが溢れているか(リア充タイプ)、深く考えたら耐えられないような現実に向きあう狂人か(小説家タイプ)、自分の現実が耐えられないようなものだと気がつかないおばかさんか。(1番幸せに生きれるタイプ)
テレビはある意味逃げ道だ。
その逃げ道に走ったところで、深く考えたら耐えられない現実を生きていることには変わりない。
変わりないなら、それは考えて、考えて、改善策・打開策を出した方がいいんじゃないのか。
テレビという安易な楽しさに逃げてないで。
って考えながら帰ったらテレビつけるんでしょうね。現実を見つめる勇気なんてないもの。今日も今日とて。(^^)/~~~